○発表のポイント:
◆細胞内分子群や動物個体群、感染症など、生体集団の示す不確実で予測が困難なふるまいを効果的にコントロールするための新たな理論を開発し、分子モーターの最適な輸送制御則や、集団多様性を維持する最適戦略、そして、感染症の抑制方法などを導いた。
◆情報理論に基づく制御コストを活用することで、従来の制御理論で扱いが困難であった生体集団の動態制御を可能にする理論を構築し、特に急激に変化する制御が難しい集団では、集団の状態に依存して「いつ制御すべきか、いつ待つべきか」を自発的に切り替えるスイッチング戦略が効果的であることを明らかにした。
◆本研究は、感染症流行の制御、がんの進行抑制、生物多様性の保全など、生命と健康に関わるさまざまな生体集団制御問題に対して、共通かつ汎用的な制御理論の枠組みを提供するものであり、複雑生体系の理解と制御の高度化に貢献することが期待される。

分子や動物・人間社会など、確率的に振る舞う生物集団の制御の概念図
○概要:
東京大学 大学院情報理工学系研究科の堀口 修平 博士課程(研究当時)(現:金沢大学 ナノ生命科学研究所 特任研究員)と、同大学 生産技術研究所 兼 生物普遍性連携研究機構 小林 徹也 教授による研究グループは、不確実に変動する生体集団の振る舞いを最適に制御する理論的枠組みを構築しました。本研究では、制御コストとして情報理論に基づくfダイバージェンス(注1)やその特殊形のKullback-Leibler(KL)情報量(注2)を導入することで、複雑な制御方程式を容易に解くことに成功しました。そして、分子モーターの輸送、生物集団の多様性維持、感染症の流行制御といった異なる文脈の問題に共通して応用可能であることを示しました(図1)。特に、集団サイズが指数的に変化する場合、制御難度の変化に応じて「いつ制御すべきか、いつ待つべきか」を状況に応じて自然に切り替える"モードスイッチング戦略"が最適解として現れることが分かりました。本成果は、確率制御理論の応用範囲を大きく広げるものであり、今後の医療・環境・合成生物学への貢献が期待されます。

図1:多様な生体集団の振る舞いを最適に制御する制御則を導く
○発表者コメント:堀口 修平 特任研究員の「もしかする未来」
細胞が集団として自律的に秩序を生み出す姿に魅力を感じ、その仕組みを知りたいという思いから研究を始めました。研究を進めるうちに、集団の振る舞いを数理的に捉える視点が、細胞だけでなく、化学反応や生態系、感染症といった異なる現象の理解や制御にも役立つことに気づきました。今後は、外部からの操作にとどまらず、システムがどのように内在的な制御を実現しているのかを解き明かし、その知見を将来の応用を支える理論的基盤として発展させたいと考えています。
○発表内容:
分子や、ウィルス、細胞から個体、そして、我々人間社会をも含む生体の集団では、集団を構成する分子や個体が非線形に相互作用して、その状態や個体数が離散的に変化します。これらの相互作用は、偶然性に強く支配され、加えて集団はしばしば指数的に増殖・減少するため、集団の変動は大きなゆらぎを内包し、その予測や制御は一般に困難です。たとえば、感染症の広がりをどう抑えられるのか、がん細胞の増殖を抑制できるのか、あるいはどのようにして生態系や腸内環境で多様な種のバランスを保つ ことができるのか――これらはすべて「不確実な集団の動き」をどうコントロールするかという問題につながっています。
今回、東京大学の研究チームは、こうした複雑で不確実な生物集団の変動を、より的確にコントロールするための新しい理論を開発しました。この理論では、制御にかかるコストを情報理論で導入されたfダイバージェンスやその特殊形のKL情報量で測ることで、一般性を損なうことなく従来よりも計算しやすく、かつ現実に即した方法で最適な戦略を導き出せることが特徴です。特にこの方法では、集団の持つもともとのゆらぎを最大限活用した制御戦略が得られ、分子の反応から感染症まで、ミクロからマクロにわたる多様でゆらぎの大きい生体集団の制御課題に応用可能な、汎用性の高い方法となっています。
具体的には、①細胞内でモーター分子がお互いにぶつからずに最大速度で輸送する仕組み、②複数種が競合する環境で種の絶滅を阻止する効率的な方法、③感染症などの流行を効果的に抑える方策、という三つのモデルに対して本理論を適用しました。その結果、指数的な増減を示す②と③では「つねに制御し続ける」戦略だけでなく、「制御の困難さや有効性に応じて制御のON/OFFを切り替える」戦略が自然に導かれることが分かりました。たとえば競合する種の制御では、両方の種が同程度存在するときはあえて何もせず、どちらかの種の個体数が少なくなったところで集中的に制御することが効率的だとわかりました(図2)。こうした「モードの切り替え」が理論から自動的に現れることは、実際の社会実装においても有用な指針となり得ます。
このように本研究は、制御工学・情報理論・生物学という異なる分野を融合させることで、現実の複雑な問題に対して柔軟かつ効率的にアプローチするための強力な理論的基盤を提供しています。今後は、がん免疫療法の最適化、パンデミック時の対策立案、人工細胞やバイオロボットの設計など、さまざまな場面での活用が期待されます。

図2:個体群の最適な絶滅制御則から導かれたON/OFFモードの切替戦略
同じニッチを争う2種が存在する場合、何も制御をしないといずれどちらかの種の個体数がゼロとなって絶滅します(上)。提案手法を用いると、なるべく最小限のコストで最大限絶滅を回避するように制御する方法が計算できます(左下)。コストに対してどの程度絶滅回避を優先させるかによって最適な制御方法が異なります(黒:コストを重視、紫:コストと絶滅回避の両方をバランスよく重視、橙:絶滅回避を重視)。絶滅を回避するには、どちらかの種の個体数が絶滅に近づいたときのみONになり、それ以外の状況ではOFFになるような制御が最適であることが分かります。このようなON/OFFモードの切替戦略を適用したときの個体数の時間変化をシミュレーションすると、絶滅するまでの時間を効率的に延長することができます(右下)。
○発表者・研究者等情報:
東京大学 生産技術研究所
小林 徹也 教授
兼:生物普遍性連携研究機構 教授
兼:大学院情報理工学系研究科 教授
金沢大学 ナノ生命科学研究所
堀口 修平 特任研究員
研究当時:東京大学 大学院情報理工学系研究科 博士課程
○論文情報:
〈雑誌名〉PRX Life
〈題名〉Optimal control of stochastic reaction networks with entropic control cost and emergence of mode-switching strategies
〈著者名〉Shuhei A. Horiguchi and Tetsuya J. Kobayashi*
〈DOI〉10.1103/zttn-tpzq
○研究助成:
本研究は、JST CREST 「構造的・動力学的制約を活用した多元混合化学情報の解読とその応用」(課題番号:JPMJCR2011)ほか(課題番号: JPMJCR1927)、科研費「勾配流構造による多細胞系の力学と化学の統合的理解」(課題番号:24KJ0090)、「複雑ダイナミクスを内包しうる計算原理理論の構築と応用」(課題番号:24H02148)、「進化情報アセンブリの統合理論と進化則の解読技術の構築」(課題番号: 25H01365)の支援により実施されました。
○用語解説:
(注1)fダイバージェンス
与えられた2つの確率分布の差異の程度を測る関数をダイバージェンスとよび、目的に応じて様々なダイバージェンスが利用される。特にfダイバージェンスは一般的に用いられる多くのダイバージェンスを含み、データ処理不等式など情報の伝達や処理における基本的な性質を反映した性質をもつ。
(注2)KL情報量
fダイバージェンスの一種で、機械学習や統計物理学など情報理論の関連分野において最もよく用いられる基本的なダイバージェンス。
○問い合わせ先:
東京大学 生産技術研究所
教授 小林 徹也(こばやし てつや)
Tel:03-5452-6798
E-mail:tetsuya(末尾に"@sat.t.u-tokyo.ac.jp"をつけてください)