○発表のポイント:
◆感染症の流行時には、感染による健康リスクと、ソーシャルディスタンスを取ることによる社会経済的コストとの間でバランスを取ることが重要です。しかし、様々な感染症に対してどのように個人が行動し、どのような政策を政府が導入すれば効果的なのか、その指針を与える明確な原理はこれまで知られていませんでした。
◆我々は、感染症流行の過程における人々の行動変化と感染拡大への影響を理論的にモデル化し、人々がとるべき最適なソーシャルディスタンスに対する厳密解を解析的に導き出しました。この結果により、これまで認識されていなかった単純なルールを特定することにも成功しました。
◆この厳密解の導出は、行動疫学の分野において重要な進展であり、深い洞察を提供します。この成果により、例えば政府は健康リスクと社会的コストの両方を考慮した最適な介入政策を、過去の経験に頼らず立案することができるようになります。
ソーシャルディスタンス
感染症流行の進行過程は、その流行が発生している集団の行動に依存します。しかし、その行動自体もまた、流行の進行過程に影響を受けます。
○概要:
東京大学 生産技術研究所のサイモン・シュニーダー 特任助教、京都大学のジョン・モリーナ 助教および山本 量一 教授、英国ウォーリック大学のマシュー・ターナー 教授からなる国際研究チームは、感染症の流行におけるソーシャルディスタンスの役割を、数学的手法を用いて明らかにしました。危険な感染症の流行に直面すると、人々は社会経済的なコストを払いながらも、感染による健康リスクを減らすために自発的にソーシャルディスタンスを取るようになります。この現象はこれまで数値シミュレーションを用いて研究されてきましたが、解析的に厳密解を導き出すことは困難でした。
本研究では、合理的な判断に基づいて時間的に変化する集団の行動を導き出すことを可能にする新しい数学的手法を活用し、感染症流行の進行過程に関する深く直感的な洞察を得ることに成功しました。例えば、「人々が取るソーシャルディスタンスの強度は、その時々の感染者数に比例するべきである」という分かりやすいルールを解析的に導出しました(図1)。この研究で得られた知見は、個人だけではなく、政府などの公的機関が、過去の経験のみに頼らず最適な政策を立案する際にも有益です。
図1:人々は、感染のコストと現在の感染者数に応じて、社会的活動の度合いを合理的に決定する
(a)に感染者数の時間変化i(t),(b)に人々の社会的活動の度合いの時間変化k(t)を示します。感染コストαが大きいほど、(b)人々は社会的活動の度合いkを減らし(ソーシャルディスタンスの強度k-1を増やし)、(a)感染者数iはゆっくりと変化してピーク値が低くなります。i(t)とk(t)の相関を調べると、(c)に示すように、感染者数iと人々が取るソーシャルディスタンスの強度k-1の間には比例関係があり、その傾きが感染コストαに等しいことがわかります。
○発表者コメント:サイモン・シュニーダー特任助教の「もしかする未来」:私は、COVID-19の流行が始まった際にこの研究に関心を持ちました。まず、流行がどのくらい続くのか、そして個人にとって最適な戦略は何かを知りたいと考えました。そこからさらに、最適な政府の政策についても関心を広げました。研究を進めるうちに、私たちのモデルにはこれまで知られていなかった解析的な厳密解が存在することに気づきました。この解は、問題に対する新たな深い洞察をもたらす可能性を秘めています。私たちの目標は、個人や政策決定者に対し、感染症の流行時に人命の損失を最小限に抑えるための科学的な基盤となる助言を提供することです。今後の研究の方向性として、主に二つの課題に取り組みたいと考えています。一つは「利他主義の役割」、つまり、人々がどのように他者の幸福を意思決定に組み込むのかを探ることです。もう一つは、「逆問題への挑戦」、すなわち、観察された行動から個人の意思決定における選好を推測することです。
○発表内容:
感染症の流行時には、人々は自らの身を守るために普段の行動を変えることがあります。しかし、初期の研究ではこの点が考慮されておらず、人々は感染リスクに関係なく同じ行動をとると仮定されていました。しかし実際には、人々は直面するリスクに基づいて自らの行動を選択します。私たちは、このアプローチが重要であると考えています。なぜなら、それは個人が実際に制御できる自身の行動に焦点を当てているからです。
経済学では、合理的に行動する個人はコストと利益を分析し、「効用」と呼ばれる目的関数(注1)を最大化する行動を選択すると考えられています。多くの人が同じ状況下で自身の目的関数を最大化しようとすると、「ナッシュ均衡(注2)」と呼ばれる状態が生じます。これは、他の人の戦略が変わらない限り、誰も自らの戦略を変えるだけでは利益を得られない状況です。これまで、感染症の流行におけるナッシュ均衡の解析的理解は極めて限られており、数値シミュレーションに頼るしかありませんでした。
本研究では、時間の経過とともにナッシュ均衡の行動がどのように変化し、感染症の流行に影響を与えるかについて、解析的に正確な予測が可能であることを示しました。特に、感染がどれほど深刻な影響を及ぼすと認識されているか、および感染がどの程度広がっているかに比例して、ソーシャルディスタンスが増加することを数学的に証明しました(図1)。これは、HIVなどの感染症を理解するために以前から経験的に使われてきた単純なルールを、数学的に裏付けるものです。
さらに、感染症の感染力や予測されるコストと、予測される感染者数の関係など、いくつかの新たな数学的関係を発見しました。これにより、従来は複雑な最適化問題と考えられていたものが大幅に単純化されました。
本研究は、自主的なソーシャルディスタンスが感染症の流行に与える影響を理解するためのシンプルな枠組みを政策立案者に提供することもできます。特定の感染症について、その感染力や感染によるコストを考慮することで、人々が最小限のソーシャルディスタンスしか取らないのか(感染コストが低い場合)、それとも大幅なソーシャルディスタンスを取るのか(感染コストが高い場合)を予測できます(図2)。
個人がこれらの計算を自ら行うのは難しいかもしれませんが、政策立案者がこの知見を活用することで、人々が合理的な判断を下しやすいように、明快で効果的な方針を立案することが可能になります。
図2:人々が取る合理的なソーシャルディスタンスの強度は、その感染症の感染力の強さ(基本再生産数R0)で決まる2つの特徴的な感染コスト(α*ex,α*peak)と、実際の感染コストαとの比較によって分類できる。
我々は、感染症の基本再生産数R0のみに依存する2つの特徴的なコストを特定しました。α*exは流行収束までの総症例数から、α*peakは流行のピーク時の染者数から導き出される感染コストです。ある感染症の実際の感染コストα(死亡コストも含む)がα*peakより大きければ、合理的な行動として人々が取るソーシャルディスタンスによって、感染のピークは抑えられるでしょう。αがα*exより大きければ、ソーシャルディスタンスにより最終的な症例数は大きく減るでしょう。αがα*exとα*peakの両方を下回る場合、ソーシャルディスタンスをほとんど取らないことが人々の合理的な行動となります。例えば、感染コストαが低い一般的な風邪の場合がそれに当てはまります。逆にエボラ出血熱の場合、その感染コストαは、α*exとα*peakの両方を上回るので、ソーシャルディスタンスを強く取ることが人々の合理的な行動となります。図中の点の色は、図1の線の色(α=0,100,200)に対応しています。
○発表者・研究者等情報:
東京大学 生産技術研究所
Schnyder Simon K.(シュニーダー サイモン) 特任助教
京都大学大学院工学研究科 化学工学専攻 化学工学基礎講座 ソフトマター工学分野
Molina John J.(モリーナ ジョン) 助教
山本 量一 教授
Warwick University, Department of Physics
Turner Matthew S.(ターナー マシュー) 教授
兼:Warwick University, Institute for Global Pandemic Planning
○論文情報:
〈雑誌名〉Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America
〈題名〉Understanding Nash epidemics
〈著者名〉S.K. Schnyder*, J.J. Molina, R. Yamamoto, M.S. Turner*
〈DOI〉10.1073/pnas.2409362122.
○研究助成:
本研究は、科研費「特別推進研究(課題番号:20H05619)」、「新学術領域研究(研究領域提案型)(課題番号:22H04841)」、「若手研究(課題番号:22K14012)」「学術変革領域研究(A)(課題番号:23H04508)」、JSPS先端研究拠点事業(課題番号:JPJSCCA20230002)の支援により実施されました。 JSPSフェローシップ(ID番号:L19547)、及びLeverhulme財団(Ref. IAF-2019-019)からの支援にも感謝します。
○用語解説:
(注1)目的関数
最適化問題において、最大化(または最小化)したい関数。
(注2)ナッシュ均衡
ゲーム理論において、参加者全員が自らにとって最適な戦略を選択していて、全体としてはより最適な状態があったとしても、どの参加者も自ら戦略を変更する理由がなく均衡した状態のこと。ノーベル経済学賞を受賞した数学者のジョン・ナッシュによって提唱された。
○問い合わせ先:
〈研究に関する問い合わせ〉
東京大学 生産技術研究所
特任助教 Schnyder Simon K.(シュニーダー サイモン)
Tel:03-5452-6798
E-mail:simon(末尾に"@sat.t.u-tokyo.ac.jp"をつけてください)
京都大学 大学院工学研究科 化学工学専攻
助教 John J. Molina(ジョン モリーナ)
Tel:075-383-2631
E-mail:john(末尾に"@cheme.kyoto-u.ac.jp"をつけてください)
教授 山本 量一(ヤマモト リョウイチ)
Tel:075-383-2661
E-mail:ryoichi(末尾に"@cheme.kyoto-u.ac.jp"をつけてください)
〈報道に関する問い合わせ〉
東京大学 生産技術研究所 広報室
Tel:03-5452-6738
E-mail:pro(末尾に"@iis.u-tokyo.ac.jp"をつけてください)
京都大学 渉外・産官学連携部広報課 国際広報室
Tel:075-753-5729
E-mail:comms(末尾に"@mail2.adm.kyoto-u.ac.jp"をつけてください)