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【記者発表】細胞の自己複製と成長に必要な物理条件はなにか?――成長する細胞系の熱力学理論の構築――

○発表者:
杉山 友規(東京大学 生産技術研究所 特任助教)
上村 淳(東京大学 生産技術研究所 特任助教)
Dimitri Loutchko(東京大学 生産技術研究所 特任研究員)
小林 徹也(東京大学 生産技術研究所 准教授)

○発表のポイント:
◆自己複製する分子集合と連動して体積変化する細胞の化学熱力学理論を構築した。
◆熱力学第二法則のみから細胞の体積が成長する物理条件を導出した。
◆人工細胞など自己複製するシステムの理解と設計に有用な熱力学的基礎を与える。

○発表概要:
 自己複製は、生命システムを非生命システムと区別する特徴である。その主役は自己触媒反応(注1)により複製される分子集合とそれらを包む細胞の体積成長である。生命の起源と進化の理解に向けて、自己触媒による分子複製反応とその物理的性質は長く研究されてきたのに対し、複製反応と連動して生じるべき体積成長はほとんど注目されてこなかった。しかし、もし体積が十分早く成長せず、その中で自己触媒反応だけが過度に進めば、分子は体積内で過密化し、熱力学的な制約から自己触媒反応、そして自己複製も停止してしまう。つまり、自己複製を定常的に実現するためには、体積が内部の自己触媒反応と熱力学法則に整合する形で増加する必要がある。しかし、どんな物理的条件で定常な自己複製が実現され、物理的に実現可能な自己複製状態にどんな制約が課されるのかなどは全く解明されていなかった。
 東京大学 生産技術研究所の杉山 友規 特任助教、上村 淳 特任助教、Dimitri Loutchko特任研究員、小林 徹也 准教授らの研究グループは、体積変化を伴った化学熱力学を扱う新規理論を構築し、それを用いて成長を実現しうる物理化学的環境条件と熱力学的に実現可能な成長状態、そして成長に伴い生じる熱的散逸を世界で初めて導出した。熱力学第二法則のみに立脚する本研究の枠組みは、多種多様な化学分子や反応速度論を持つ系に広く適用でき、生命の起源や生命の普遍的性質の理解に加えて、人工自己複製分子・細胞システムの実現に不可欠な熱力学的基礎を与えることが期待される。
 本研究成果は、2022年9月9日(米国東部夏時間)にAmerican Physical Societyによる「Physical Review Research」に掲載された。

○発表内容:
<研究背景>
 自己複製は、生命システムを非生命システムと区別する最も重要な特徴である。その中心的な役割は、自己触媒反応により複製される分子集合とそれらを包む細胞の体積の成長が担っている。自己複製の実現に必要な条件の探索は、フォン・ノイマンによる数理論理学を基礎とした自己増殖オートマトンの理論(注2)にさかのぼり、高度な反応機構を持ちえない原始環境においてどのように分子複製の機構が出現したのかという生命の起源の問題にも深く関連する。特に実際の細胞は物理化学的な対象であるため、化学熱力学に整合的で物理的に実現可能な自己複製の条件を求めることは、生命を物理的に理解するための最重要問題の1つとして位置づけられる。
 しかしながら、これまでの研究のほとんどは自己触媒的な複製反応のみに主眼が置かれてきた。一方で、複製分子を包み反応する場を支える細胞状の構造とその体積成長も自己複製機構の維持やその進化に不可欠である。特に体積成長が内部の自己触媒反応と協調して進まなければ、反応が亢進して細胞内で分子が過密化し、熱力学的な制約から反応自体が停止もしくは逆反応が優位になり、自己複製は実現されない(図1)。しかし、どのような環境条件を用意すれば内部の自己触媒反応と連動した体積成長が熱力学的に許されるのかについては、その重要性に関わらずほとんど解明されていなかった。また、自己複製を伴う定常成長状態は非平衡な状態であり、その状態がどんな特徴を持つのか、また、その状態を維持するためにどれだけの熱力学的なコストが必要なのかなどの問いに答えうる一般的な理論も十分に整備されていなかった。

<研究内容>
 本研究グループは、体積成長を含む極めて広い化学熱力学を扱いうる理論を新たに構築した。その理論を元に、定常な分子複製と細胞成長が実現されうる環境条件、熱力学的に実現可能な非平衡な定常成長状態、そして自己複製に必要なコスト、つまり定常的に成長すること自体に伴う熱力学的な散逸を導出することに世界で初めて成功した。

1.成長を伴う化学反応熱力学を扱う新規理論
 熱力学は、システムの物理的に可能な振る舞いを規定する極めて強力で普遍的な理論である。具体的には与えられた制約下で熱力学的エントロピー(注3)と呼ばれる量が増加する方向への変化のみが物理的に許される。したがって、細胞が成長しうるのかを判断するには、内部の自己触媒反応の進行に対してエントロピーがどう変化するかを捉えることが重要となる。しかし、細胞体積が内部反応と連動して変化する場合、個々の反応が体積変化を誘導し、体積変化が全体の反応のしやすさを変化させるという連環によりこの問題は極めて難しくなる。本研究グループは、この問題を扱う新たな理論を化学熱力学の幾何学的性質を基礎として構築した。

2.細胞成長を決定する物理条件の解明
 この理論を元に、環境条件に依存してエントロピー関数の形状が幾何学的に3通りに分類されることを示した(図2)。それぞれ細胞体積と細胞内分子数が無限に増加する成長状態、体積と分子数とが一定化する平衡状態、そして体積と分子数が0に収束する収縮状態に対応し、成長状態の実現に必要な普遍的な物理条件が明らかになった。

3.定常成長状態における熱力学的制約
 加えて定常な細胞成長状態において、物理的に実現可能な細胞内の分子組成が強く制約されることも明らかにした。これにより生きている状態を規定する物理的要請の一部が明らかになった。そして、この定常な細胞成長状態に伴って生じる熱的散逸の一般的な表式を得た。

<今後の予定>
 熱力学第二法則のみを仮定する本研究の理論は、あらゆる化学分子種や反応速度論を持つ系に広く適用できる普遍性をもち、生命の起源や生きている物理状態の持つ普遍的性質の解明に不可欠な役割を果たす。また、自己複製分子や細胞を人工的に設計する際にも物理的に満されるべき環境条件を明らかにする。この理論に細胞膜の物性や膜生成過程などのより具体的な要素を組み込み、生きた細胞の物理モデルを作ることは重要な課題である。そのためには第二法則のみならず反応速度論なども包含しうる非平衡化学熱力学が必要であり、今後その理論体系の構築を目指す。

※本研究は日本学術振興会科学研究費助成事業(19H05799, 21K21308), CREST(JPMJCR2011, JPMJCR1927)などの助成や支援を受けて行われた。

○発表雑誌:
雑誌名:「Physical Review Research」(9月9日)
論文タイトル:Chemical thermodynamics for growing systems
著者:Yuki Sughiyama*, Atsushi Kamimura, Dimitri Loutchko, Tetsuya J. Kobayashi
DOI番号:10.1103/PhysRevResearch.4.033191

雑誌名:「Physical Review Research」(7月21日)
論文タイトル:Hessian geometric structure of chemical thermodynamic systems with stoichiometric constraints
著者:Yuki Sughiyama*, Dimitri Loutchko, Atsushi Kamimura, Tetsuya J. Kobayashi
DOI番号:10.1103/PhysRevResearch.4.033065

○問い合わせ先: 
東京大学 生産技術研究所
准教授 小林 徹也(こばやし てつや)
Tel:03-5452-6798 Fax:03-5452-6798
E-mail:tetsuya(末尾に"@sat.t.u-tokyo.ac.jp"をつけてください)
URL:https://research.crmind.net/index_jp.html

○用語解説:
(注1)自己触媒反応
 化学反応において、その反応により生成された物質がその反応自体を促進する触媒の役割をもつ反応。反応の生成物がそれ自身の増大を促進することから、生命システムが普遍的に持つ増殖する能力を支える重要な化学反応と考えられている。

(注2)自己増殖オートマトンの理論
 コンピュータの創案者として知られるフォン・ノイマンが、計算機と生体システムとの間にある類似点に注目し提案したシステム理論。自己複製する実体が持つべき数学的な要件を、数理論理学を用いて考究したものとして知られる。

(注3)熱力学的エントロピー
 熱力学第二法則において、巨視的な物理システムが変化しうる方向を定める物理的な量。システムは全エントロピーが増加する方向にしか進めないという事実は、第二種永久機関が実現不可能であることと等価である。

○添付資料:

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図1 成長する自己複製反応系の概念図
自己複製分子群(赤・ピンク)は外部と材料分子(濃青)や老廃物分子(薄青)をやり取りして自己複製をする。反応が起こる細胞体積は内部の分子の増加と協調して成長しなければならない。

220912小林徹也先生図2.png
図2 細胞の運命(成長・収縮・平衡化)と対応するエントロピー関数の形状
自己複製分子群(種1と種2)の分子数に対してエントロピー関数の値を赤(正の領域)、青(負の領域)の濃淡で表している。分子数が0である原点(黒丸)と破線上でエントロピー関数の値は0となる。成長する場合(左):分子数が増加する向きに対してエントロピー関数は増加する(緑の矢印)。収縮する場合(中央):エントロピー関数が最大値をとる原点(分子数が0)に向かっていく(緑の矢印)。平衡化する場合(右):初期条件や反応速度に依存して最大値をとる破線上のいずれかの点にいたる。

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