○発表者:
芦原 聡(東京大学 生産技術研究所 准教授)
○発表のポイント:
◆"波の形(音楽でいう旋律)"を整えた赤外光を用いて、分子振動(注1)を強く揺さぶり、分子の結合を切断すること(解離反応)に成功した。
◆波の形を整えた赤外光をナノスケールの微小空間に集中させることにより、振動励起(注2)による解離反応を、これまで困難とされてきた溶液中で初めて実現した。
◆本手法は、対象分子に注入するエネルギーを最小限にとどめることができる上、目的とする反応を選択的に誘起・促進できる可能性をもつ。今後、医薬・環境・エネルギーなどに関わる幅広い化学反応を対象に本手法の有効性を高め、適用範囲を広げていくことが期待される。
○発表概要:
東京大学 生産技術研究所の芦原 聡 准教授、森近 一貴 博士課程大学院生、櫻井 敦教 特別研究員(研究当時、現:分子科学研究所 助教)、石井 和之 教授、村田 慧 助教らのグループは、"波の形(音楽でいう旋律)"を適切に整えた赤外光を用いることにより、分子振動を強く揺さぶり、化学結合が切断される解離反応を誘起することに成功した。
多くの化学反応は、加熱により活性化エネルギーの壁を越えることで進行する。しかし、その温度には限界があり、また、複数の反応が起こりうる系では、目的とする反応以外の反応も促進されてしまう問題があった。そこで、本研究グループは、こうした熱反応を促進する鍵が分子振動の励起にあるという原理に立ち返り、周波数を選ぶことで特定の分子振動を励起できる赤外光の利用に着目した。具体的には、ピコ秒(1兆分の1秒)程度の短時間に強く光る赤外光を、プラズモニクス(注3)を活用してナノメートルスケールの微小空間に集中させ、さらに、あたかもメロディーを奏でるように周波数が適切なタイミングで時々刻々と変化するよう電場波形を整えた。この『旋律を整えた強い赤外光』を用いて活性化エネルギーを超える振動励起を達成し、実現が困難と見られていた溶液中においても解離反応の誘起が可能であることを実証した。
本手法は、反応に直結する振動運動だけを励起するため、対象分子に注入するエネルギーを最小限にとどめることができる上、目的とする反応を選択的に誘起・促進できる可能性をもつ。今後は、医薬・環境・エネルギーなどに関わる幅広い化学反応を対象に有効性を高め、本手法の適用範囲を広げることが期待される。
○発表内容:
[1] 研究の背景
多くの化学反応は、加熱により活性化エネルギーの壁を越えることで進行する。こうした熱反応を誘起・促進するためには、通常、物質を高温に保つというアプローチがとられるが、その温度には限界があり、特に液相反応では溶媒の沸点以上に温度を上げることはできない。また、温度を上げると目的とする反応に関わらないものも含めてあらゆる運動にエネルギーが分配されるため、多くのエネルギーが無駄になる。複数の反応が起こりうる系では、目的とする反応以外の反応も促進されてしまうという問題もある。
加熱によって反応を促進する際の鍵が分子振動の励起にあるという原理に立ち返ると、加熱に代わる方法として、「反応に関わる分子振動モードを電磁波によって選択的に励起する」というアプローチが着想される。分子振動の共鳴は電磁波でいうと中赤外域に存在するため、中赤外光(ここでは単に赤外光と呼ぶ)によって特定の分子振動を励起することで、目的とする反応を誘起できることが期待される。この「モード選択的(化学結合に選択的)な励起による反応制御」というアプローチは"Molecular Surgery(分子手術)"と呼ばれ、究極的な分子制御手法の一つと目されてきたが、一方で、溶液中では分子振動の減衰(振動緩和)が起こりやすいため、その実現が困難との見方もあった。
[2] 研究内容
本研究グループは、光の電場波形(音楽でいう旋律に対応)を制御する技術と光を微小時間・微小空間に集中させる技術を活用して、分子振動を強く揺さぶり、多くの化学反応が行われている溶液中において化学結合の切断、すなわち解離反応を誘起できることを実証した。
量子力学的な考察から、一定の周波数で振動する赤外光よりも、周波数が適切なタイミングで時々刻々と変化する赤外光の方が、分子振動を格段に大きな振幅で駆動できることが予測される。この理論予測に基づき、照射する赤外光の電場波形を整形した。さらに、振動緩和に打ち勝って高い振動励起を実現するため、電場強度がピコ秒程度の短時間に集中した赤外パルスを、表面プラズモン励起によってナノメートルスケールの微小空間に集中させた。この旋律を整えた高強度の赤外光を金属カルボニル錯体(注4)に照射した。
その結果、液相においてカルボニル基の伸縮振動の第6振動準位への励起を観測した。これは、18,000℃の熱エネルギーに相当するエネルギーを特定の振動モードに注入したことを意味する。この高振動励起により、カルボニル配位子が切り離される結合解離が誘起されることを確認した。
[3] 社会的意義・今後の予定など
以上の通り、超高速光学とプラズモニクスという光技術を有機的に組み合わせることにより、多くの化学反応が行われている溶液において分子振動励起を通した解離反応を初めて実現した。本手法では、溶液全体を加熱する必要がなく、反応に直結する振動運動だけを励起するため、対象分子に注入するエネルギーを最小限にとどめることができる。本研究で用いた赤外光の光子エネルギーは0.24 eV程度であり、振動運動の多段階励起によって解離反応を誘起している。この光反応は、関与する光子エネルギーが小さく、電子的基底状態で反応が進む点で、紫外光(波長380 nm以下、光子エネルギー3.3 eV以上)・可視光(波長380 nm~780 nm、光子エネルギー1.6 eV~3.3 eV)による電子励起を介した光反応とは、明確に異なる反応機構である。このように、化学反応を選択的に誘起・促進するための新たなアプローチを提示した。
今後は、医療・環境・エネルギーなどに関わる幅広い化学反応を対象に有効性を高め、本手法の適用範囲を広げることが期待される。
○発表雑誌:
雑誌名:「Nature Communications (Nature Publishing Group)」(オンライン版:8月29日)
論文タイトル:Molecular Ground-State Dissociation in the Condensed Phase Employing Plasmonic Field Enhancement of Chirped Mid-Infrared Pulses
著者:Ikki Morichika*, Kei Murata, Atsunori Sakurai, Kazuyuki Ishii, Satoshi Ashihara*
DOI番号:10.1038/s41467-019-11902-6
○問い合わせ先:
東京大学 生産技術研究所
准教授 芦原 聡(あしはら さとし)
Tel:03-5452-6136
研究室URL:http://www.ashihara.iis.u-tokyo.ac.jp/
○用語解説:
(注1)分子振動
分子を構成する原子同士の位置関係が変化する振動運動。結合の長さが伸び縮みする伸縮運動や結合角が変化する変角振動などがある。結合の強さや質量に依存した固有振動数がある。
(注2)振動励起
熱や光などによって分子振動が引き起こされること。運動に際して電気双極子モーメントが変化するような分子振動は、その固有振動数に近い振動数の赤外光によって励起される。
(注3)プラズモニクス
金属表面における自由電子の集団振動である表面プラズモンとの結合を利用して光を制御する技術。光を波長以下の空間に局在させたり、電場増強効果を得たりすることができる。
(注4)金属カルボニル錯体
一酸化炭素(CO)を配位子にもつ遷移金属錯体の総称。
○添付資料:
図 旋律を整えた強い赤外電場による分子振動励起の概念図