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同窓会設立に寄せて

松下幸雄名誉教授

平成16年11月12日に、表記「生研同窓会」の第1回パーティーが、生産技術研究所千葉実験所で開催された。このキャンパスは、筆者が本学工学部冶金学科を昭和17年9月30日に卒業して直ちに就職した思い出の土地でもあり、当日早朝の荒天もどうやら収まる予報であったので参加する機会に恵まれた。

筆者の卒業当時は、第二次世界大戦の真っ只中でもあり、半年の繰上げ卒業で、しかも兵役の義務が待ち構えていたので、筆者は海軍短期現役を選択した。卒業論文は、故志村繁隆先生と一色貞文先生の御指導を受け、卒業と同時に専任講師として、その年の4月に開学したばかりの第二工学部に就職する予定であった。しかし、前記の事情で海軍に採用されていたゝめ、併任のまゝ海軍航空技術廠支廠に勤務した。その跡地は、京浜急行電鉄の「金沢八景駅」に近く、現在は東急車輛(株)の工場になっており、横浜市立大学に隣接している。

支廠での業務は、徹甲弾用低合金鋼の製造研究であった。思えば、この時の体験が第二工学部に戻って開始した研究の端緒になった。戦局は日に日に厳しくなってきていたが、第二工学部での非常勤講義の依頼が飛び込んできたゝめ、造兵学科と航空学科だと記憶しているが、「金属組織学」の講義に十数回、金沢八景と西千葉間を往復したこともあった。若さとは恐ろしいもので、終戦近くには廠内に泊り込んで頑張った。

敗戦の詔勅は廠内で聞いた。当時の虚しさは、経験者のみの知るところである。しかし有難いことに、筆者には帰るべき故郷があり、第二工学部に受け入れて頂いた。研究のための設備やら器具、消耗品などは支廠当局の好意で金沢八景から西千葉まで軍用トラックで運んで貰った。鉄鋼の分野では、昭和21年4月に故吉川晴十先生が停年で退職され、当時の八幡製鐵(株)から故金森九郎先生が後任として着任された。筆者は、この時点で金森先生の推奨により鉄鋼の分野に飛び込んだ。以後、34年余、筆者は鉄とゝもに歩むことになった。

第二工学部では、講座制の厳しい枠がなく、助教授も研究面で自由に活動することができた。筆者は、海軍当時の体験から、研究の焦点を鉄鋼スラグ(珪酸塩の融体)の物性と反応性に絞り、若さを売り物に研究室に泊り込むなどもした。しかし、随分と我が儘に振る舞い、講義では悪評も頂載したし、今にして汗顔の至りである。終戦直後の食糧事情は、今では考えられないほど悪かったが、幸い広大な構内で採れる甘藷は腹を満たすのに貢献してくれたし、学生と草野球などして大いに遊んだ。

昭和24年5月、生産技術研究所の発足とゝもに、第二工学部はそれに併設の形となり、昭和26年春に閉学、工学部分校として昭和29年春に最後の卒業生を世に送り出した。やがて麻布移転の構想が現実となってゆくが、筆者は冶金学科の事情で昭和34年1月本郷キャンパスに配置換えとなった。このあと21年余で停年退職し、8年ほど会社(現JFE)顧問をしてから、現在は完全な年金生活者であるが、NHK学園の通信講座などを漁り、幸い余生を謳歌させて頂いている。