生研同窓会会員の声

松下幸雄先生, 元良誠三先生, 小松正幸氏, 二上かをる氏, 高橋幸伯先生

西 千 葉 の 変 遷

生研同窓会に寄せて

平成17(2005)年12月 高橋幸伯 

(pdf原稿) 

私は、東大第二工学部の第3期生として、船舶工学科に昭和18(1943)年10月に入学し、昭和21(1946)年9月に卒業した者ですが、卒業後60年も経ってようやく同窓会が発足したことを、心から喜んでいます。第8期生までで後の絶えた第二工学部の卒業生だけでなく、生産技術研究所の教職員や大学院学生まで含めて、しかも参加不参加はご自由で会費納入もお心任せという、一風変わった同窓会のようであります。役員諸賢の運営のご努力は大変と思いますが、今後の健全な発展を切に祈念しております。

多様なメンバーの中でも先頭に立つのは、戦中戦後の動乱期を西千葉の地で過ごした、第二工学部の卒業生の皆さんだと思いますが、この方々には、今は姿を消した西千葉の第二工学部周辺の過去・現在について、いろいろの思いがあるものと拝察します。

私は昭和18年の入学から昭和60年の定年退官まで、42年間絶えず第二工学部と生産技術研究所に継続勤務しており、助手時代には構内に住み込んでいたこともあり、裏門から僅か 700 mの現住所に住むことも、既に55年になっております。西千葉周辺の変遷を語るには、適任者の一人でもあろうし、またその責任もあるような気が致しますので、以下の拙文を綴ってみました。徒然の折りに往時を懐かしむ縁ともなれば幸いであります。

1.戦前の穴川地帯(図1)

大正6(1917)年の参謀本部(現陸地測量部)の地形図である。継ぎ接ぎした地図をコピーしたものであるが、貼合わせミスのため、現在稲毛区役所の位置(C)から上の部分が少し左にずれているのをお許し願いたい。

穴川部落の東南の方に、陸軍の施設が散在しているが、西南の方は、東大第二工学部(A)や戦車学校(B)は未だ出現しておらず、一面の畑地であったらしい。敬愛学園の前身の関東中学校は随分古い学校のようである。第二工学部の職員で、ここの夜間中学に通っている人も何名か居た。右上の方に「練兵場」とか「天覧台」とある辺りは、現在は千草台団地となっている。戦後何年間も子供達の遊ぶ砂山で放置されており、小銃の薬莢などが沢山転がっていた。近くの「天台」という町名は、天覧台に由来するものかも知れない。

2.西千葉の陸軍施設(図2)

平成12年千葉市発行の「千葉空襲写真誌」から引用したものである。 鉄道や道路は当時のものでなく、現状を描いているようで紛らわしい。千葉駅はもう少し上方に在り、房総線(内房線・外房線)は、そこからスイッチバックするようになっていた。

上方の軍用軽便鉄道は、習志野練兵場に通ずるもので、私も学生時代に軍事教練の宿営のため乗ったことがある。拙宅はもともとこの線路跡に建てられた掘立小屋(低所得者用県営住宅)であった。道路も、図示のような広い道路は無く、第二工学部の周囲も幅 1 m 位の小路であった。軍用鉄道に沿った E と F の間の道も、私が入居した頃(昭和26年)は、バス1台がようやく通れる程度の道であったが、いつの間にか国道16号という幹線道路となり、最近はまた国道126号と改名している。入居当時、軽便鉄道跡と陸軍兵器補給廠外壁跡の間には老木の桜並木があり、毎年見事な花を見せていた。

3.終戦時の第二工学部(図3)

第二工学部は昭和17年4月に開学したが、当初は僅か2,300坪の建物しか出来ていなかった。学生は、教室の共用とか日曜の登学とかの不便を忍ぶ毎日だったらしい。交通の便も悪く、電車通学の学生は、稲毛駅から線路上を歩かなければならなかった。同年10月には南門近くに省線の「西千葉駅」が新設され、京成電鉄も従来の「浜海岸駅」を移転して、正門の正面に「東大工学部前駅」を開設した(この駅はその後「黒砂駅」・「みどり台駅」と改称を繰返す)。

戦時中の諸般事情のため建設はなかなか捗らず、開学3年後の昭和20年には、当初計画の 12,000坪のうち、9,000 坪がすべて木造でやっと終わった程度であった。それが、昭和19年1月7日の火災や20年7月6日の空襲で 3,000 坪を失い、図3に示すような状態で終戦を迎えたわけである。上(東北)の部分に空襲被害が大きかったのは、隣に陸軍の兵器補給廠や鉄道聯隊材料廠などがあった(図2)ためで、そこへの絨毯爆撃のお裾分けを頂いたらしい。千葉市発行の「千葉空襲写真誌」(平成12)の罹災状況図では、歩兵学校・気球聯隊・鉄道聯隊などは罹災地の着色がされているが、同日に全焼した補給廠や材料廠にも第二工学部の焼失部分にも、被災のマークは一切施されていない。

区域の南端(図の右端)には昔からの松林があったが、他は畑を造成しただけの裸地で、植樹や造園も行き届いてなかったので、誠に殺風景な過疎地帯の風景であった。近所にある「黒砂」の地名の由来でもある砂地が広く露出しており、風の強い日は室内にも砂塵が積もるような有様であった。

殆どが木造二階建てであったから、残った建築面積は約3,000坪で、敷地150,000坪のわずか2% という過疎状態であった。空き地(緑地ではない)の多かったおかげで、北部・東部の地区は食糧難時代に農地として活用され、朝夕や休日には教職員の日曜百姓で賑わっていたものである。私も、卒業後の第二工学部助手の時代、船舶教室の小使室に住込んで通勤時間ゼロの自炊生活を数年間続けており、篤農家の一人であった。焼け跡を掘り返すと、焼夷弾殻のパイプが無数と言ってよいほど出てきたのを思い出す。

図3のなかで冶金教室部分の A 印は、今日現存する唯一の建物で、生産技研千葉実験所の事務室や会議室として活用されている。

4.東京移転前の生産技研(図4)

昭和34年頃の生産技研の航空写真である。上部(東北)の焼け野原であった兵器材料廠跡には小さな公営住宅が建ち並び(現在は高層の集団住宅が並んでいる)、一面の甘藷畑で建物の皆無であった下部(西南)にも一戸建ちの個人住宅がいくらか増えてきている(現在は立錐の余地もない)。下の写真の左下隅の十字路は京成電鉄の「みどり台駅」(旧「東大工学部前駅」)で、その下に並んでいるのが焼け残った学寮である。

第二工学部は昭和17年4月開学以来26年3月までの9年間に、8回の卒業生計 2,598 名を送り出してその幕を閉じたが、看板を下ろしたのは27年3月となっている。閉幕後に、新制大学制度への切り替え時の白線浪人救済策として臨時増募した学生のために、工学部分校として8学科で約200名を受け入れ、昭和29年3月に送り出している。

敗戦国日本には今後工学教育は不要であるというような暴論が、国の内外で横行している中で、第二工学部の閉学は防げなかったが、工業技術の必要性を信じていた諸先輩の大変な努力によって、第二工学部は生産技術研究所として生まれ変わることとなった。諸般の事情によって規模は半減に近くなり、10学科60講座(教授定員60)の学部が5部35部門(教授定員35)の研究所となったわけである。生産技術研究所の発足は昭和25年4月で、2年間は第二工学部と共存の形で、教職員は2役を受け持っていた。

図4の写真に見るとおり、周辺にはいくらか戦後復興の兆しが伺われるが、第二工学部の構内は終戦直後の図3と殆ど変っておらず、大変な過疎のままである。裏門近くに立っている(上の写真でも影が写っている)煙突は、図3の汽缶室に附属するもので、始動前に戦災で焼失したため一度も煙の通っていない煙突である。千葉大に移管された後も昭和40年過ぎまでこのままで立っていた。

右下の南門近くに在る4階の長い建物は、戦後初めて建てられた構内唯一のコンクリート建築である。木造建築の老朽化対策として、20年(?)計画の初年度事業として昭和32年に完工したものである。その後突然東京移転の話が持ち上がって、復興計画は立ち消えとなった。この建物は移転前は生産技研の第5部(土木・建築関係)が使用していたが、千葉大学になってからは工学部の工業デザイン学科が使用していた。千葉大構内に残る唯一の東大の遺物であったが、残念ながら数年前に解体された。私は昭和60年に生産技研を定年で退いて、その後3年間東京農工大学の講座担当教授を3年間勤めたが、同時に千葉大学工学部の非常勤講師を5年間勤め、週に1回この古巣に帰りこの古い建物の一室で講義を続ける幸運に恵まれた。小金井市の農工大へは、8市10区を通って JR の40駅を通過する片道2時間半の通勤であったが、千葉大へは自転車で5分の距離であった。

5.第二工学部跡の現状(図5)

千葉市の季刊誌「市民フォト千葉」の113号(平成13年)から採ったもので、第二工学部跡の全域が見事に写っている。生産技術研究所は、15万坪の内12万を千葉大学に引き渡して、昭和37年に麻布(現在六本木)へ移転した。残り3万坪を千葉実験所(当初は千葉実験場と呼んでいた)として保留し、都心では実施しにくいような実験を続けてきた。その後一部(約300坪)を東大の職員宿舎として割愛して今日に至っている。

研究所業績の充実に従って、新しい研究棟も次第に増加し、
   大型構造物振動実験棟 津波高潮水槽実験室 地震応答実験棟 研究実験棟
   構造物動的破壊実験棟 航海性能試験水槽  海洋工学水槽
などが建ち並んでいるが、隣の千葉大学に比べるとまだまだ緑の多いすばらしい研究の環境を保っている。実験所内の建物(A)は図3の(A)で示した焼け残った冶金の建物で、現存する唯一の第二工学部の遺物である。戦前から在った南端の松林も、図中の(B)のようにその面影を残している。千葉大学構内の松林の傍に在った生産技研の残した唯一のコンクリート建物(図4)は、この写真では姿を消している。

千葉大学領域には、医学部(中央区)と園芸学部(松戸市)以外の部局が集中しており、附属の中学校・小学校・幼稚園も同居している。地域内の建物の並びや、周辺民有地の住宅の密集状態など、40年前の図4の過疎状態と比べて頂きたい。

生産技術研究所の本隊(?)は、西千葉に12年(1950〜1962)、六本木に39年(1962〜2001)居たが、平成13年(2001)に駒場キャンバスへ移転した。これまでは、第二工学部の木造古屋や麻布3聯隊の老朽兵舎の再利用など不便を忍んできたが、今回は独自に設計新築した8階建ての研究棟を中心とする素晴らしい新天地である。規模も5研究部門・6研究センターの大所帯で、教職員300・大学院学生600を擁する、我が国最大世界有数の大研究所となっている。

6.西千葉周辺の現状(図6)

図6は9年前の市販の千葉市地図から採ったものである。番地や一方通行の記号なども入っていていささか煩わしいが、町名や施設名などが詳しく載っており、戦前の千葉市を懐かしむ方にはいい資料になるかと思う。

この地図は前項の図5よりは時期が古いようで、千葉大学に残したコンクリート建物は、附属幼稚園の「稚」の字の下に残っているのが見える。また、(A)の実験所内の古い冶金学科の建物も、「技」の字の下に見えている。

緑町の京成「みどり台」駅(旧「東大工学部前」)傍の学生寮(D)は公営であったようで、その跡は小学校となっている。登戸町の(E)と稲毛町の(F)は民営の寮で、現在は民家となっている。私はこの両方に住んだことがあるが、昭和21年3月10日(東京大空襲記念日)に稲毛寮(F)は火災で全焼した。私もここで焼け出されて丸裸となり、同級生二人の居た黒砂町の下宿に転がり込んで、卒業までの半年間3人1室の暮らしを続けた。稲毛寮の焼失後、国鉄の反対側の現在の小仲台1丁目や小仲台5丁目あたりに、学生寮が設けられたらしいが、詳しいことは承知していない。

道路のことを少し説明しておこう。下方にある右下がりの広い道路が国道14号で、戦前はここが海岸線であった。左方は2km 程も埋め立てられ、住宅団地や工場団地となり、昔の遠浅の砂浜の面影は全く無い。国道14号の終点(K)に在る戸渡神社は、葛飾北斎の富岳三十六景のうちの「登戸浦」に、その鳥居が描かれている神社である。私は昭和25年頃近くの松波町に間借りしていたが、この鳥居に当たる場所でよく潮干狩りをしたものである。

国道14号の延長はここから国道16号となっていた。16号線は富津岬から東京湾を大きく一周して横須賀に至る大環状線で、図の右上隅の京葉道路穴川インターまで下りて来て、京葉道路を直角に跨ぎ、穴川十字路で左折してから、市内中央部の紆余曲折を経て(K)点にたどり着き、そこでスイッチバックして木更津方面に向かっていた。最近は、16号線は穴川インターで左折して、高速道路に沿って市を迂回する形で南下し、浜野町で旧来の16号に合流している。(K)点からこの合流点までの間は国道357号と改称され、穴川インターから(K)点の間は、南北に走る国道126号(東金街道)と、東西に走る国道51号(成田街道)とが分担することになったらしい。ごく最近の変改のようで、タクシーの運転手にも知らない者が多い。

第二工学部4辺の道の変化も著しい。南端の松林に沿って在った小径は、今は学生生徒の通行が多いので、「ゆりのき通り」と称して、両側に4m 歩道を従えた4車線の大通りとなっている。ユリノキの並木は美しいが、毎年の剪定が激しいので、残念ながら優雅な花を見せたことはない。西側は大学に因んでか「学園通り」と呼ばれている。東側の道路も、東大の敷地を少し削って一昨年ようやく拡張工事が終わった。北側の稲毛区役所から穴川十字路に至る道路は、数年前からずっと工事中で物凄い道幅の道路になるらしいが、完成はまだまだのようである。

昭和18年の入学時、千葉には医大(現千葉大医学部)もあったが、遠く離れていたためかあまり文教地帯の香りはせず(書店も古本屋も殆ど無かった)、軍人さんばかり目立つ文化果つる処のような感じであったが、今は大変な文教地区となっている。図の範囲内だけでも、赤点で示した小学校以上を北から列挙してみると、下記のように 31 校もある。

 
県立千葉女子高小中台小県立京葉工高千草台小千草台中
敬愛大学敬愛学園高轟町中第二養護学校轟町小
千葉大附属中千葉大附属小都賀小 千葉大学千葉経済大
千葉経済附属高千葉経済短大弥生小県立千葉東高緑町小
緑町中幸町第四中幸町第一中椿森中県立千葉商高
幸町第二小弁天小幸町第二中幸町第三小登戸小
新宿小

図1から約90年、図4から約45年での変化、ただただ驚くばかりである。「穴川」は、図1に見るような廣い区域であったらしいが、第二工学部が開設されて弥生町が生まれ、戦後には轟町が生まれて、図6のような狭い町となり、国際マラソンなどで最終の山場となる「穴川十字路」や、京葉高速道路の「穴川インター」などに、その名を留める程度となっている。先年千葉市が政令指定都市になったとき、このあたりを「穴川区」にするか「稲毛区」にするか競争したらしいが、後者が勝利を得た。

モノレールの「穴川駅」は図示の通り「穴川」町の最北端にあるが、「穴川インター」は町の領域外に在る。私宅の近所にあるモノレールの「天台駅」は、「穴川駅」よりも南で、「天台」町の最南端に位置する。「天台」の町は京葉道路の北側に拡がる広大な領域で、県営競技場・野球場・武道場などもある。ここは一般に「天台スポーツセンター」と呼ばれており、「スポーツセンター前駅」も存在する。ここで何か催し物があるとき、間違えて「天台駅」で下車する参加者が多いようである。「天台駅」では、高架の階段を下りた改札口に、「二つ先の駅まで行って下さい。」という貼紙があり、また階段を引返していただく仕掛けになっている。

お気付きかと思うが、「天台」と「天台町」、「穴川」と「穴川町」、「弁天」と「弁天町」、「稲毛」と「稲毛町」および「小仲台」と「小中台町」とは、まったく別の町ということになっている。住居表示の新方式への切替えを、終えた所と未だの所の違いらしいが、この作業は中断したままらしい。

図の右端の方(J)の気球格納庫の傍に都賀小学校が在るが、百年以上の由緒ある学校らしい。付近には都賀中学校・都賀公民館・都賀村役場跡の碑などがあるが、いずれも稲毛区作草部町に属している。「都賀」の町はここから 3km 程東に離れた若葉区に在り、モノレールでは「天台」から五つ目、JRでは西千葉から三つ目の「都賀駅」もある交通の要衝となっている。以前に集団検診で都賀公民館に行ったとき、家から 600m の距離にあるのを知らずに、電車で「都賀」まで尋ねて大失敗をしたことがある。

以上


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