生研同窓会会員の声

松下幸雄先生, 元良誠三先生, 小松正幸氏, 二上かをる氏, 高橋幸伯先生

千葉の思い出

元良誠三名誉教授

私は昭和19年に第二工学部船舶工学科を卒業した第一回生です。第二工学部は戦況が逼迫する中、技術者を大量に養成する必要から、急遽東大に工学部と同じ規模の工学部を作ることになり、千葉に設立されたものです。既存の工学部(第一工学部)と同レベルにするため教官の人選はもとより、学生の振り分けも同レベルにするように、数学の教授が工夫して第一1,4,6,・・・第二2,3,5・・・とゆうふうに振り分けたと聞いています。そのため本郷に住んでいる学生が千葉に通い、千葉の学生が本郷に通うということも起きました。私たちの入学当時は20万坪に及ぶ敷地にばらばらと木造の校舎が建っているだけで、あとは一面の芋畑の跡の空き地でした。西千葉の駅もまだ無くて稲毛から線路伝いに歩いて通ったのを覚えています。畑には前年の収穫の残りの芋が掘れば結構出てきて、食料不足のおりから、教職員も学生も皆喜んで持って帰ったものです。

当時は実験設備も整備されていませんでしたが、教職員も学生も創立者という自覚があり講義にも研究にも熱気が溢れていて、第一工学部のような伝統と重厚さは無い代わり、自由闊達な気風が有りました。また有り余る空き地を利用して農耕活動も活発で、多い人は100坪ぐらいの畑で芋などを作っていました。第一工学部からバレーボールの試合に来た学生たちが薩摩芋のご馳走に感激したのを覚えています。私は卒業後海軍技術中尉として1年間佐世保海軍工廠で勤務した後、終戦で復員して大学に戻り助教授として昭和27年に生産技術研究所に移行するまで、勤務しましたが、設備は依然として整わず、また食糧難でしたが、設立時の熱気は失われていず、特異な個性を持った立派な人材が数多く巣立っていったことを誇りに思っています。食糧難なので、芋つくりにも励みましたが、収穫した芋を戸棚に入れていたのに、鼠が巣くってしまったのには困りました。今でも古い資料を開くと時たま鼠の糞がころりと出てきたりします。

私は第二工学部が生研に移行した時に本郷の工学部に移りましたが、船舶の航海実験水槽を作る際本郷に土地が無いので、生研のご好意で千葉実験場に造らせていただき、千葉とのご縁がまたできた訳です。

今回生研の同窓会で久しぶりに千葉実験場を訪れましたが本部事務室は元の共通第一教室だったかしらとか、入り口からの道に平行して糸川先生のペンシルロケットの実験トンネルらしいものが見えたり金森先生の溶鉱炉の跡があったりして懐かしく思うとともに新しい研究施設が数多く作られ活発に稼動している様子を拝見して心強く感じた次第です。


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